「日本の三大怨霊 菅原道真」

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学問の神として知られる菅原道真。彼が日本の三大怨霊の一人となったのには、どういう経緯があったのか。

 

無実の罪で九州へ

学者の家に生まれ、幼いころから才能を認められていた道真は、役人となってもその才能を発揮し、宇田天皇に気に入られる。宇多天皇醍醐天皇に位を譲ると、道真は右大臣になった。しかし、それを面白く思わなかったのが藤原氏である。藤原氏醍醐天皇へこう伝える。

「道真は醍醐天皇を追い落とし、斎世親王天皇にしようと画作しています」

醍醐天皇はそれを信じ、道真から右大臣の位を取り上げ、九州の大宰府へ左遷させるよう命令を出す。それを聞いた宇田上皇は宮へ駆けつけるが、中に入ることすらできなかった。

身に覚えのない罪で大宰府に送られた道真は、軟禁状態の中、2年後の西暦903年に息を引き取る。

 

始まる復讐

死後間もなく、比叡山に道真の霊が現れ、僧にこう告げる。

「今から私を左遷に追いやった者達を祟って復讐します。彼らが助けを求めても、応じないでください」

まず、藤原菅根が雷に打たれ死亡。菅根は左遷が決まったときに駆けつけた宇田上皇の行く手を阻んだ人物である。

菅原時平、狂死。時平は病気にかかり、治癒のために加持祈祷と行っていたが、時平の両耳から道真が蛇の霊となって現れ

「私が復讐しようとしているのだから、加持祈祷などしても無駄だ」

時平は道真左遷の中心的な役割だった。

道真の怨念を鎮めるため、醍醐天皇は道真の墓所の上に立派な社殿を建てるよう命じる。これが今も残る大宰府天満宮である。

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しかし道真の怒りは収まらない。

醍醐天皇の皇太子、保親王が21歳で死去。新しく皇太子となった慶頼王も5歳で死去。 

どうにかして道真の怒りを鎮めたい朝廷は、道真左遷に関する文書を焼き捨てることにし(その際、僧や役人が焼死している)、取り上げた右大臣の位を再び道真に贈った。

しかし道真の怒りはまだ続く。

干ばつが続いたことにより、清涼殿で雨乞いをするかの会議が行われていた。すると、干ばつが続いていたにも関わらず、黒雲が空を覆い、激しい雷雨となる。雷は清涼殿に落ち、藤原清貫と美努忠包が死亡。宮中で5名の死傷者を出した。

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この事件にショックを受けた醍醐天皇は体調を崩す。天皇の位を8歳の寛明親王に譲った1週間後に崩御する。

その後、藤原時平の長男も物の怪に取り憑かれ狂死。

 

収まる怒り

いったいどうすれば道真の怒りは収まるのか。朝廷が途方に暮れていると、ある日、京都の七条に住む娘の枕元に道真の霊が現れる。

「私が昔よく行っていた右近馬場に祠を建てて、私を祀ってください。そうすれば、私の恨みは鎮まります」

近江の神社の息子にも同様のお告げがあり、建てられたのが京都の北野天満宮である。

怒りの鎮まった道真は、天神様、学問の神様として信仰の対象となっている。