「日本の三大怨霊 崇徳天皇 (怨霊)」
崇徳天皇は産まれた時からちょいと訳ありで、父親は鳥羽天皇と言われてますが、実は鳥羽天皇の祖父の白河上皇が父親だという説が有力になっています。5歳で即位しますが、22歳のときに鳥羽天皇と美福門院の子である体仁親王に位を譲るように強要されます。崇徳天皇は崇徳院に。
体仁親王は近衛天皇になりますが、17歳で崩御。次の天皇に崇徳院は自分の長男を推しますが鳥羽院が猛反対。崇徳院の弟の雅仁親王が即位。後白河天皇になります。
1年後、鳥羽院が病に倒れます。
崇徳院のお見舞いを後白河天皇は拒絶。鳥羽院が崩御すると崇徳院がいないまま初七日を実施。これで崇徳院の怒りマックス。保元の乱へ。
負けた崇徳院は讃岐送りに。
舌の先を食いちぎり、その血で「天下滅亡」と書き残して海に投げ入れます。
1164年崩御。翌年から祟りが始まります。
後白河天皇の近親者4人が2か月間で立て続けで死去。
京都の3分の1を焼き尽くす大火発生。1000人以上死去。
その後100年ごとに崇徳院の怨霊を鎮める式年祭が執り行われるようになりました。
500年の式年祭は京都大火
静まるところのない崇徳院の怒り。今は収まったのでしょうか。普通だったらここで終わるんですがね。色をつけた文字が・・・。
次回に続きます。